カナタ 二章 水の町 4
「なんだこりゃ」
呟くジルの声も、耳の奥まで響く水音にかき消される。
マルセルに案内されて聖地への入り口に向かった三人の足下に、轟々とすさまじい音をたてる濁流が姿を表した。
向こう岸までの距離はそんなに遠くはないが、飛び越すには遠すぎる。
「ここじゃ音がうるさくいから、少し離れよう」
マルセルが声を張り上げて後ろに下がるよう促す。
「普段は釣りなんかも出来る穏やかな川で、橋が架かってて向こうまで渡れるようになってるらしいんだけどね。ある日突然こんな有様になったらしい」
濁流の方向に目線を向けながら、マルセルは村人に聞いたらしい話を伝えた。
「今は雨の季節じゃないし、そもそもここ数日上流でも雨も降ってないらしいんだ。なのにこの濁流。おかしいと思わないか」
「確かに異常だな。村人の被害は?」
「今のところないみたいだね。でも向こう岸に花畑があって皆よく摘みに行くらしいんだけど、行けなくて困ってるみたいだ」
「そうか…」
呟いて、ジルは眉間に皺を寄せ考え込んだ。
「ねぇ」
「ん?」
フィリカがおずおずと手を挙げた。
「ラシータ達の『力』でなんとかできないの?濁流を止めるとか、向こう岸まで飛んじゃうとか」
「んー…。ラシータ」
振られたラシータは目線を伏せた。
「多分、無理だと思う。俺とコルトの力じゃ。シグウス兄上とかならなんとかできるかもだけど」
「…だと。まぁあんまり聖地付近で交信時以外に『力』を使うのは好ましくないからな」
「え、そうなの?じゃ、この前『力』使って私を見えないようにしたのは…」
「まーあの場合は例外だな。だがあんまりいいことじゃない、と言われてる。こいつ曰く、精霊が驚くから、だそうだ」
俯くラシータに目線を移しながら、ジルが答える。
「ふぅん…」
巡礼っていろいろと複雑なのねぇ、と呟いたところで自分が話の腰を折っていることに気付き、フィリカは口を閉じる。
それを確認してか、マルセルが再び話し出した。
「とにかくまぁこんな有様なわけで、俺とコルト様はここで一週間も足止めを食らってるんだ。しばらくすれば水量も減るだろうと思ったんだけど、全然なんだよねぇ」
やれやれ、という風情でマルセルは肩をすくめた。ジルも小さく唸りながら濁流の方向を見つめている。
「あにうえ。おんなのこです」
「は?」
コルトがぽつりと濁流の方向を見つめながら呟いた。
それに釣られて次々と視線がコルトの目線を追って行くと、
一人の少女が、まさに今助走を付けて濁流に突っ込もうとしている。
否、おそらく、飛び越えようとしている。
「あぶな…っ!!!!」
フィリカが短い悲鳴を上げている間に、ジルは駆け出した。
「お前何してる!!」
少女はぎくりとした様子で足を止め、こちらを振りむいた。
だが、それを振り切るように再び濁流の方へ向きを変えて駆け出す。
「ちょっと待て死ぬ気か早まるな!!マルセル止めるぞ!」
「当然」
ジルとほぼ同時に駆け出していたマルセルもスピードを上げる。
だが、少女との距離が遠すぎた。足に自信のあるジルでも追いつけそうも無い。
ジルがヒヤリとした焦りを感じた瞬間、
まさに今濁流へと飛び込もうとした少女の体が、不自然にふわりと宙に浮かんだ。
「え…っ!」
悲鳴を上げる少女の足が止まった。
その隙にジルとマルセルは女に追いつき、ジルが少女の左手を、マルセルが右手を思い切り引っ張った。
勢いで少女は後ろに盛大に尻餅を付く。
「いたぁっ!」
「そりゃいてぇーよ!濁流に突っ込むよりはマシだろうけどな!」
肩で息をしながら、少女を見下ろしてジルは怒鳴った。
(今浮かんだのって…)
ジル達の方へ駆け付けながら、フィリカは隣を走るラシータに視線を向ける。
「ラシータ良くやった!!!」
追い付いたラシータ達の姿を認めると、ジルは声高にラシータに声を掛けた。
その言葉を聞いて、先程のことはやはりラシータが『力』を使ったのだと確信する。
「…なんで邪魔するの」
フィリカ達が集まったのを見計らったかのように、少女は不満そうに呟いた。
しゃがみこむジルの背中越しに覗き込んだフィリカは、少女がラシータと同年代くらいだと気付く。
身長はおそらくラシータよりも少し低いくらい。顔のラインで切り揃えられた茶色の髪は、日の光を受けると赤く透ける。
髪と同じ色の瞳には不本意そうな色がたっぷりとにじんでいて、ふくらませた頬と相まって少女をさらに幼く見せている。
いかにも活発そうな雰囲気を持った少女だ。
その不満気な表情を見ながら、ジルが呆れたようにため息をついた。
「あのなぁ、目の前でガキが濁流に突っ込もうとしてんだぞ。普通止めるだろ」
「突っ込もうとしてたわけじゃない。飛び越えようとしたの」
「そんなの無理だって見りゃわかるだろ」
「やってみないとわかんないじゃない!つまんない大人」
「悪かったな。とにかく、もうこんな真似はやめろ」
「やだ」
ぷいとそっぽを向いた少女を見て、マルセルが吹き出した。
「相変わらず女の子に振り回されるのが得意みたいだね、ジル」
「うるせーな、相変わらずってどういう意味だ」
「どういう意味も何もそのまんまだけど?なんならここで詳細に説明していいんだけど」
「…やめろ」
(女の子に振り回されるって)
誰に?
肩を落とすジルを見ながら、フィリカは胸に小さく何か刺さるような感覚を覚えた。
「…ねぇ」
ラシータの呼びかけに、少女は顔を上げる。
「死のうとしてたんじゃないなら何をしようとしてたの。向こうに何かあるのか?」
自分と同じ目線で尋ねられ、少女は気まずそうに視線を落とした。
「…フィリカ」
「え?」
突然少女の口から名前が出て、フィリカは不意を突かれる。
「フィリカの花が欲しいの。あれがないと、お姉ちゃんが結婚できないの」
ラシータから再び目をそらしながら、少女は呟いた。