カナタ 二章 皇族 2




「いつこちらへ。ヴィン村に向かわれるのですか」
護衛兵に放ったような凛とした声で、ラシータは背筋を伸ばして兄と呼んだ男と向き合った。
「いや、昨日ヴィンでの巡礼を終えたところだ。これからラキへ向かう。お前は」
「はい。これから、ヴィンでの巡礼を行うところです」
「そうか」
シグウスは口元だけで笑って返した。しかしラシータのものよりも少し黒を帯びた蒼い瞳は少しも緩まない。

何者も寄せ付けない、硬質な石。フィリカはそんな印象を受けた。

髪は闇のような漆黒。肩ほどまで伸び、結われて肩口に流れている。端麗な顔の造りに、浮かべられた硬質で上品な笑み。長身な体はラシータと同様マントで覆われている。悠然と立つ姿は実に堂々としたもので、生まれながらの高貴さを物語っているようだ。
彼の前に立つものは背筋を伸ばさずにはいられない。周囲を飲み込むような、圧倒的な何かを感じる存在だった。

「店主はいるか!こちらはアナスタシア皇国の第一皇子、シグウス=クレア=アナスタシア様だ。この宿で一番の部屋を用意せよ。当然食事もだ」
突然張り上げられた大声に、フィリカは思わずびくりと身を縮ませる。発したのはシグウスの後ろに寄り添っていたらしき青年だった。シグウスの存在に気を取られていたために気が付かなかった。
フィリカの視界の外で、ジルが額に手を当てて盛大にため息をついた。
「お、皇子…!?ひぇ…は、はいただいま!!!!」
腰が抜けそうなほどに恐れ入った様子の店主は、大慌てで部屋のある二階へと駆け上っていった。

騒然となった食堂で、顔色一つ変えずにシグウスはラシータの隣のテーブルに腰を降ろす。
視線を感じたフィリカは、伏せていた顔を上げた。シグウスの深い蒼の双眸が自分を見つめている。
「それが例の娘か」
まるで感情を感じさせない声色で、シグウスは言った。すぐ横に控えていた青年もはっとした様子でフィリカに目線を向ける。
「そうです、兄上。ラキの街から共にしています。名前はフィリカといって」
「名前?記憶喪失なのではないのか」
シグウスは形の良い眉をひそめる。ラシータは慌てたように言葉を続ける。
「名前がないと不便なのでジルが名付けました。シャリエール姉上とも話しましたが、とにかく記憶が戻るまでは私たちが彼女を保護することに」
「カルラの女と共に旅か。お前の巡礼に支障は」
「大丈夫です。彼女は『力』の使い方すら忘れていますし、私が巡礼するのに何の障害にもなりません」
きっぱりと言い張るラシータに、シグウスは意外そうな目を向ける。
フィリカは居心地が悪そうに身を縮めて座っている。とても食事を続けられる雰囲気ではない。

「巡礼中の皇子とカルラの女か。どこかで聞いたような話だな」

ラシータがびくりと身を震わせる。

「共に旅をすることは何も言うまいが、間違えるのではないぞラシータ。この娘は“あの女”とは違うのだ」
途端にラシータははじかれたように顔を上げる。
「わかっています!!!私は」
「そう声を荒げるな。シャリエールとの間で話は付いているのだろう、今更反対はせん。ただ神聖な巡礼の最中に不必要な感情を絡ませるな。いいな」
有無を言わせぬ強い口調に、ラシータは厳しい顔つきで「はい」と返事をする。
一連のやりとりが飲み込めていないフィリカは、いつもの癖でジルを見上げた。だが、目を合わせたジルも自分もわからないとばかりに小さく頭を振る。

「女。お前もだ」
フィリカがはっとしてシグウスの方へ顔を向ける。

「カルラとはいえ、皇族の人間に気安くするな。お前たちの部族の特殊性を自覚して大人しくしていろ。わかったな」
睨み付けるように冷たい視線を向けられ、フィリカは固まる。
有無を言わせない強い口調。リナリアも口調は鋭かったが、シグウスの声はさらに冷酷に響いた。
「あ…兄上。彼女は」
ラシータが思わず弁護しようとすると、深蒼の瞳に刺される。
「弟とはいえこれ以上私に逆らうことは許さん。黙って食事を続けろ」
ラシータは傷ついた表情をして顔を伏せた。見ているほうがいたたまれなくなるような様子だ。
フィリカも気分が沈んで俯いた。
ジルだけが、無表情に、だがはっきりと顔を上げてシグウスを見ていた。


気詰まりな沈黙は、店主がシグウスのテーブルに料理を運んできたことで破られた。質素ながらも、なんとか上品に見せようと取り繕われているのがわかる料理だった。シグウスは一瞬眉を顰めたが、諦めたかのようにゆっくりと口に運び出した。食事の間、控える青年は決して席に着こうとはしない。静かに後ろに控えているだけだった。

ラシータとフィリカはすっかり食欲をなくした様子で食事の手が進まない。
ずっと沈黙を守っていたジルがふいに席を立った。何事かとフィリカが目線で追うと、ジルは普段の様子では信じられないくらいに丁寧な動作でシグウスの前に片膝を付いた。

「お食事中申し訳ございません、シグウス様。本日の旅でラシエルハルト様は大変お疲れのご様子です。お先に休ませていただくことをお許し下さい」

頭を垂れて、よどみなくジルは言った。フィリカは呆気にとられたように口をぽかんと開けてその様子を眺めていた。

シグウスは自分の足元に控えるジルを一瞥すると、「許可する」と視線を食事に戻しながら言った。
「ありがとうございます。では参りましょう、ラシエルハルト皇子」
シグウスに慇懃に礼をし、ジルは立ち上がってラシータに向き合う。
ラシータは一瞬唇を噛み締めたが、すぐに姿勢を正して立ち上がった。
「わかった。行くぞジル。フィリカも。兄上、失礼します」

同じく丁寧に礼をして三人は二階への階段に向かって歩き出した。
シグウスの後ろに控える青年が、フィリカが通り過ぎる瞬間に鋭い視線を向けた。思わずぎくりとするが、次の瞬間にはもうシグウスのほうを向いている。

後味の悪さを残して、三人は部屋のある二階へと上った。









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