カナタ 一章 約束 5




空にうっすらと星が輝く。
沈みかかった太陽が、一日を惜しむかのように街の景観を自らの光で染める。
少しずつ夜に飲まれていく様を屋上から眺めながら、少女は風に流される髪を片手で押さえた。

そろそろ二人が戻ってくる頃だろう。ラシータは心配して会いに来るかもしれない。
それでも部屋に居れば世話役の女性がやってくるし、運ばれた食事に手を付ける気にもなれない。
気兼ねなく一人になりたくて、廊下にいた兵士に屋上まで案内してもらった。彼は自分の視界に入らない位置で待っていてもらっている。申し訳ないとは思ったが、人の気配の感じるところに居たくなかった。

(…疲れた)

少女は息を吐き、屋上の手すりに手を置く。


『万が一あなたが皇子やシャリエール様を害するようなことがあったら。私は、あなたを殺す。』


リナリアの言葉を思い出し、少女は再び眩暈を覚える。

はっきりと向けられた敵意。
自分は得体の知れない存在なのだと、改めて突きつけられた思いだった。

(…仕方、ないんだけど)
少女自身が、自分の存在を恐れているのだから。

超人的な『力』。それは人を害することもできるという。
今は使い方がわからないが、もし突然思い出して、誰かを害してしまったら。

以前の自分が、人を害することを厭わない人間だったら。

少女は思わず身震いした。

リナリアの言葉には相当竦んだが、心のどこかでほっとする自分も居た。
自分が得体の知れない力に呑まれたとしても、彼女なら止めてくれる。


自分を信じることが出来ない恐怖。
そしてそんな自分に向けられる周囲の警戒心。

少女は、考えることを拒絶するかのように強く瞳を閉じる。
それでも気持ちはどんどん暗いほうへと落ちていく。


自分はここにいてもいいのだろうか―――



「こんなとこにいたのか」


はっとして顔を上げると、ジルが屋上の入り口に立っていた。

「…おかえりなさい。戻ってきたのね」
沈みきった気持ちを振り払うように少女は笑顔を作った。精一杯明るい声を出したつもりだったが、自分で聞いていても少し不自然だったように感じる。

「ついさっきな。ラシータがえらく心配してたぞ。今は部屋で休んでるけど、後で顔を見せてやるといい」
ジルは少女の方に向かって歩いてくる。少女の声の不自然さに気付いたかどうかはわからない。

「そっか。じゃ、そろそろ部屋に戻った方がいいわよね。探しに来てくれてありがと」
そう言って近付いてきたジルを避けるように入り口に向かった。精一杯顔を合わせないようにしながら。

「フィリカ」
「え?」

通りすがろうとする少女に、ジルが遮るように左手を差し出す。
釣られて差し出された手を見ると、そこには小さな赤い花が載っていた。

「…花?」

意図がわからない少女は、答えを求めるように目線を上げる。
その視線を受け止め、ジルは笑みを浮かべて答えた。

「明日から、お前は俺とラシータと一緒に旅することになる。そんで、お前のことをフィリカと呼ぶことにした。この花の名だ。昨日、お前が寝てた草原に咲いてただろ。お前の目と同じ色だ」

フィリカ。

少女は呆然と差し出された花を手に取る。
受け取ったことを見届けたジルは、改めて少女を見据えた。

「そんでな。俺は決めた。」
「…決めたって。何を」

力なく見上げる少女の瞳を捕らえ、はっきりと意志を込めて口にする。

「俺は、今後一切お前を疑わない」

少女の瞳が揺らいだ。

「お前がお前である限り、俺はお前を守る。お前がお前を信じられなくても、俺はお前を信じる。お前が、フィリカが、堂々と立っていられるように」

少女は緋色の瞳をこぼれんばかりに見開き、目の前の青年の顔を凝視する。
その瞳が揺らいでいることを確認し、ジルは照れたように笑った。

「まぁ、守るっつってもラシータになんかあったらそっちを優先することになるけどな。そんなわけで、記憶が戻るまで安心して一緒に来い。フィリカ」

微笑むジルの顔を見て。自分に付けられた名前を呼ばれて。
少女は――フィリカは、限界だった。

緋色の瞳が歪んだ、と思うと、それはあとからあとから零れ落ちていった。
華奢な肩が、小刻みに震えだす。


安心して一緒に来い。


それは今、少女が本当に欲していたものだった。


「…あー…」

なんとなく予想はしていたものの、実際に目の前で泣かれジルは困ったように目を泳がせる。
そして、一瞬何かを思案した後、気まずそうにフィリカを見る。

「…あのな。俺たちみたいな『力』のない人間は、カルラの女に手を出すわけにはいかないんだ」

唐突に話し出したジルを、濡れた瞳が不思議そうに見上げた。

「『力』は血で残されるもんだ。カルラは、カルラの部族内でだけその血を残してきた。だからもし部族外にカルラの血が混ざったらそれこそ国家転覆の危機ってやつで…」

「…何いってんの」
フィリカはますます怪訝な表情になる。

「…まぁ、そんなわけで。今回は特別だ」

何が、とフィリカが口にする前に、いきなり引き寄せられ、額を広い肩に押し付けられた。
びっくりしてとっさに手で押し返そうとするが、後ろから肩を押さえられ身動きが取れない。
離して、と口に出しかけた。だがその前に、自分の肩に置かれている腕と、額に当たる肩の温かさに気付いて。

強張っていた身体がほぐれていくのを感じた。ますます目の奥が熱くなる。

「…やっぱりお前今まで無理に突っ張ってたんだろ」

照れ隠しのように上から声が降ってきて、改めて今の状況を意識しフィリカは赤面した。
顔が見えない位置でよかったと胸の内で安堵する。

「…突っ張ってたって何よ。別に私は」
言い返してみたものの、涙声なので情けない声になってしまった。
からかわれると思ったが、ジルはそれには触れずに呆れたように言う。
「あのなぁ、強気な態度ってのはそいつがそれまで積み重ねた自信からくるもんなんだ。お前自分が何を積み重ねて来たのか覚えてないんだろ。つまりお前のそれは全部虚勢だ」
「…じゃあジルはどうなのよ。やたら偉そうに」
「俺はいいんだよ、すごいから」
「えぇぇ何を根拠に。昨日とか完全にリナリアさんに主導権握られてたくせに」
「うっ…。痛いとこ突いてくるなお前」

ジルのしかめ面を想像し、フィリカは肩の下でこっそり笑った。

偉そうで口が悪いけど。
この人、本当はすごく優しいひとだ。

「今日だけ特別?」
「そうだ」
無愛想な言い方にまた笑みがこぼれる。

今日だけなら。こんな風に触れるのが最後なら。

少しだけこの人の温かさに甘えてしまうのもいいのかもしれないと思った。
そうしたら明日からきちんと立っていられるような気がした。

フィリカはジルの肩の下で瞳を閉じる。

昨日、草原で目を覚ましてからずっと張り詰めていた心がだんだんと柔らかくなっていく気がした。
先程まで不安で立っているのも精一杯だったのが嘘みたいだ。

この人と一緒なら。

無愛想だけど温かな腕の中で、フィリカは昨日感じた予感よりもずっと強くそれを感じていた。

初めて心から笑えたような気がした。








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